今は亡き両親の事!その3

三年位が過ぎた頃、勤め先の社長から勤務振りを賞して”金一封”を頂いた事があった。父はそれを無遅刻無欠勤でいられたのは母のおかげと言い、母に手渡した母はその時涙していた。”感激する”と言う事を覚えたのは、この時でした。今、物質文明に恵まれた時代になり、朝起きれば、昨夜セットしておいたヒーターのタイマーで部屋は”ポカポカ”しているという生活の中で、こう出来る事への主人に対する感謝の気持ちと同時に、寒い冬の朝の”母の姿”を思い出します。頭からスッポリ襟巻きをして綿入れを着込んで、火ちりんに火を起こし、練炭の下の方が赤くなって、暖かくなった頃他の家族は起き出し、六人でコタツはギュウギュウになる。暖かいお味噌汁をすすって・・・平和な毎日でした。
ラジオからは娯楽番組は流れておらず、NHKのお堅い放送ばかりでした。(父はこのラジオを戦後の苦しかった思い出にと、長い事大事に保存していました。)ちまたで流行った”流行歌”を聞き覚えて来て口ずさんだりすると、「子供がそんな”はしたない歌”を歌うものではない」と、たしなめられるので自然音楽からは遠のいてしまって、今私は、音痴の部類です。これは父のありがたくない置き土産なのです・・・・。父が何故音楽を嫌ったのかというと、父は人も知る音痴だったからです。父が歌らしいものを歌っていたのを聞いたのは、たった一つ、「ここはお国の何百里、離れて遠き満州の赤い夕日に・・・・・」という例の歌だけです。質素な生活のこの頃、私達子供は、”おやつに”良く昆布の根っこを食べさせられました。母は味で言うと”こんぶ”、父は”菜っ葉の漬物”と”イナゴの佃煮”なのです。漬物の中に菜の花を見つけると、まるで高価なものを扱う様に弟や私の口にそっと運んでくれたものです。 次回で最終!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です