今は亡き両親の事!その2

又、母も”優しく””辛抱強く”(もっとも老後は、目と耳の不自由な事等から、たいへん変わってしまった部分もあり、お世話になった山下夫婦、紳兄夫婦には”大変な思い”をさせてしまった事も”充分承知しております。ここにお世話になった皆様方に厚く御礼を申し上げます。)父と力を合わせて、子どもを守ってくれたものです。家の前にあるどぶ川に落ちて、全身ドブネズミの様になって帰った事が、何回かありましたが、たた一つしか着替えがなくとも、水道も道路を隔てた共同水道まで行っての洗濯で、さぞ”手数の掛かった事でしょうに・・・・。そんな時でも母は決して怒りませんでした。”愛情が深く、辛抱強い”これは両親の子育てに一貫していました。この頃の母の格好は父の軍隊時代のズボンをいつも履いていて、夕方まで遊んでいてなかなか帰ってこない私を、よく迎えに来てくれました。[富士子さーん、富士子さーん]と優しい声で・・・・。母と手をつないで帰る途中、頭上にはコウモリが富んでいましたっけ。この時代に父がひどく”子供達を叱った事がありました。当時紳兄さんが仕入れて来た飴等を売る駄菓子屋で、生計を得ていたのですが、店で売れ残っていたはずの”おまんじゅう”が一つなくななってしまっているので、「誰が食べたか正直に言いなさい」と一人一人に聞いたけれども、雄一兄さんも、洋子姉さんも私も、弟の十郎も「食べていない」と返事をしました。それを聞いた父は、「そんなはずはない、嘘をつく事は非常にいけない事だ、本当の事を言いなさい」と、だんだんすごい見幕になって、初めて見る父のいきり立った様子に、四人の子供はビックリしながらも誰も「自分が食べた」とは言いませんでした。そこへ帰宅した紳兄さんが「あっそれは俺が食べた」・・・・・・父は拍子抜けし
、子供達は”ほっ”として一件落着。この事から、「嘘をついたり不誠実であったりしてはいけない」と言う事を子供ながらに私は理解したのです。気前が良くて気位の高かった父には、もともと商売は適していなかったのだけれど、私が小学五年生の頃、父はようやく勤め先を見つける事が出来、社宅のあった江東区深川に、四人の子供と共に引越してからの事、水を得た魚の様に生き生きとひたすら真面目に”仕事をしていたのでしょう・・・・・・・・・・・・・・。

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