亡き兄姉のおもいで!その3

「満月の女将という人は姉の小さい時良く面倒見た人で後には大きな料亭を営み成功した人です。」姉はこの人の性質を受けているせいか、姉妹中で一番元気者で、一番怖がりやで一寸違っていました。何か心配事が起こると又”鶴ちゃだろう”と言われみんなの注目の的でしたがこの気丈さは、世の中に出て又昭代において助かったのではないでしょうか?他の姉妹はあまりに弱すぎて自分を苦しめている様な気がします。特に一番上の姉はその典型的なものであった様です。さてこの度、はからずも兄上が悪病で入院され三十五キロに痩せられた事をお聞きした時、若かりし三坂通りの思い出がまざまざと私の目の前を”彷彿として”・・・・・・涙が滲みました。啓子さんと紳さん(二歳と一歳)を両手に軽々と抱き、悠々三坂通りのかなりの坂を登ってこられたあの・・・・ああ人生はこうも変わって行くものでありましょうか・・・・・あの元気あの若さ・・・・・気丈な兄も病には勝てなかったのかと・・・・・・・・。思い出は又昔に帰りますが、兄は結婚後第一生命保険会社に活躍し、とんとん拍子に成功し奉天に転勤になった時は、支店長でレンガ造りの大きな素晴らしい社宅住まいだったそうです。わたしはおとずれませんでしたが・・・・・・・・・・・。
しかしそこで兄姉達にとって大きなショックが起こったのです。それは可愛い子供さんを四人も亡くされた事です。兄はとても子煩悩だったので、その悲しみはお話になりませんでした。また姉もすっかり力を落とし二人で嘆き悲しみ、しばしば立ち上がる元気もなかったのですが、女はやはり強く、姉の励ましで兄もやっと元気を取り戻したとの事です。兄姉の一生にとって忘れられない苦しい思い出だったと思います。

亡き兄姉の思い出!その2

ところがある時、兄が訪れたのでびっくりしました。きっと文通でもして仲良くなっていたのかもしれません。兄の介抱で姉は助かりましたが、兄と姉の仲がいつの間にこんな仲になっていたのかと不思議に思ったわけです。私は女学生でしたのであまり感心なかったのですが、それからニ、三年後に兄と姉は京城で愛の巣を造る事になりました。その間いろいろな問題が起こったのです。姉は最初から兄と上手く結婚出来ませんでした。心の隅に忘れられないものを抱きながら、昔ながらのしきたりの見合いが始まったのです。それが京城という場所であった事がそもそも兄との縁を結ぶ原因となったわけです。そしてその見合いの相手は郵便局の局長の次の方で、相当の年配で給料もたくさんとられている様聞いていました。ところがさあお見合いとなると、その方の頭に髪の毛が一本もはえていないのでびっくりしたらしいのです。”病気じゃないのかしら”と姉は逆上するばかりに家を飛び出し”兄の下宿に”走ったのです。それから一年程姉は、満月と言う料亭(父の銀行時代の女中)に遊び時折兄と会い愛は益々実った様です。そしてついに結婚となり新居を構えました。

亡き兄姉の思い出!その1

兄は商業を抜群の成績で出た優れた才能の持ち主でした。私はその頃十七歳位で高女の三年生だった思います。姉と私は父母の家からちょっと離れた別宅に住居を構え姉は毎日刺繍、裁縫に余念がなかった様です。食事は母屋で召使は何人もいましたので姉と交代に食べに行っていました。姉は気丈でしたが、とても優しく私を良く可愛がってくれました。また姉の趣味は和歌、小説従って読書は素晴らしく、毎晩十二時まで手から本を話した事がありませんでした。夏の頃は蚊帳の中で小さい字を読み取るので若い時から目が悪く、両親の心配の種でした。ある日、学校から帰ると、庭に美しい水仙の花が「S・T」と綺麗に植えてあるのを見て、びっくりしました。その頃は、私にはピンと来なかったのですが、後でしみじみ思い当たるのは「S」は佐々木の頭文字「T」は忠一の頭文字だったのでしょう。姉は密かに兄を慕っている事がわかったのです。又姉はとても調子が良く、四つ違いの私を良く使い回して喜んでいました。ある冬の頃のことでした。カキを二つ買って来てと言いますので、「古いカキはお腹に良くないよ」と申しますと、「いいから買ってきなさい」ときかないので、私は飛んでいって買ってきました。するとそのカキを食べた時から発熱していわゆる「腸チブス」とやらにかかり就床したわけです。熱が八度ほど上がりなかなか下がらない、毎日毎日水で冷やしてお混じりを運び二週間起き上がれなかったのです。私は必死で介抱しました。          続く・・・・

今は亡き両親の事!その4(最終)

晩年はお酒飲みだった父も、この頃はほとんどお酒を飲んだ事はなかったのにある夜一升瓶をからにしてしまい、母に仕切りとあたっていた事がありました。きっと切ない思いが、溜まってしまってのことと思いますが、悲しそうな両親の声を聞いたのは、この時が初めてでした。「手当」と言う言葉を聞くたびに、父の中指の曲がった手を思い出します。ある日、激しい腹痛に襲われ苦しんでいる私を、「手当」の語源通り治るまでじっと長い事、手を当てて看病してくれたのでした。父が亡くなる一ヶ月位、宇都宮国立病院で一週間位、一緒にいられた時、昔してくれた「手当」のお返しに、よく背中をさすってあげると、「ああチャーだ・・・・」と言って、ある中国人の話をし始めました大金持ちで、息子達も医者等の立派な職業に就いていて、何不自由ない生活だったこの中国人の、最後の面倒を本当に見てくれたのは、お婆さんだったチェという人だった(中国人なので、チャと発音したとか・・・)そうです。「人の幸福」と言うのはこんな所にあるものだとしみじみ語った。私の知る限りでは両親は「責任感の強い人であったし、子供達にも、周りの人達にも、とても良くしていた様である。だから最後は、子供達全員に看取られて「幸せ」であった事が、私の気持ちを明るくしています。

今は亡き両親の事!その3

三年位が過ぎた頃、勤め先の社長から勤務振りを賞して”金一封”を頂いた事があった。父はそれを無遅刻無欠勤でいられたのは母のおかげと言い、母に手渡した母はその時涙していた。”感激する”と言う事を覚えたのは、この時でした。今、物質文明に恵まれた時代になり、朝起きれば、昨夜セットしておいたヒーターのタイマーで部屋は”ポカポカ”しているという生活の中で、こう出来る事への主人に対する感謝の気持ちと同時に、寒い冬の朝の”母の姿”を思い出します。頭からスッポリ襟巻きをして綿入れを着込んで、火ちりんに火を起こし、練炭の下の方が赤くなって、暖かくなった頃他の家族は起き出し、六人でコタツはギュウギュウになる。暖かいお味噌汁をすすって・・・平和な毎日でした。
ラジオからは娯楽番組は流れておらず、NHKのお堅い放送ばかりでした。(父はこのラジオを戦後の苦しかった思い出にと、長い事大事に保存していました。)ちまたで流行った”流行歌”を聞き覚えて来て口ずさんだりすると、「子供がそんな”はしたない歌”を歌うものではない」と、たしなめられるので自然音楽からは遠のいてしまって、今私は、音痴の部類です。これは父のありがたくない置き土産なのです・・・・。父が何故音楽を嫌ったのかというと、父は人も知る音痴だったからです。父が歌らしいものを歌っていたのを聞いたのは、たった一つ、「ここはお国の何百里、離れて遠き満州の赤い夕日に・・・・・」という例の歌だけです。質素な生活のこの頃、私達子供は、”おやつに”良く昆布の根っこを食べさせられました。母は味で言うと”こんぶ”、父は”菜っ葉の漬物”と”イナゴの佃煮”なのです。漬物の中に菜の花を見つけると、まるで高価なものを扱う様に弟や私の口にそっと運んでくれたものです。 次回で最終!

今は亡き両親の事!その2

又、母も”優しく””辛抱強く”(もっとも老後は、目と耳の不自由な事等から、たいへん変わってしまった部分もあり、お世話になった山下夫婦、紳兄夫婦には”大変な思い”をさせてしまった事も”充分承知しております。ここにお世話になった皆様方に厚く御礼を申し上げます。)父と力を合わせて、子どもを守ってくれたものです。家の前にあるどぶ川に落ちて、全身ドブネズミの様になって帰った事が、何回かありましたが、たた一つしか着替えがなくとも、水道も道路を隔てた共同水道まで行っての洗濯で、さぞ”手数の掛かった事でしょうに・・・・。そんな時でも母は決して怒りませんでした。”愛情が深く、辛抱強い”これは両親の子育てに一貫していました。この頃の母の格好は父の軍隊時代のズボンをいつも履いていて、夕方まで遊んでいてなかなか帰ってこない私を、よく迎えに来てくれました。[富士子さーん、富士子さーん]と優しい声で・・・・。母と手をつないで帰る途中、頭上にはコウモリが富んでいましたっけ。この時代に父がひどく”子供達を叱った事がありました。当時紳兄さんが仕入れて来た飴等を売る駄菓子屋で、生計を得ていたのですが、店で売れ残っていたはずの”おまんじゅう”が一つなくななってしまっているので、「誰が食べたか正直に言いなさい」と一人一人に聞いたけれども、雄一兄さんも、洋子姉さんも私も、弟の十郎も「食べていない」と返事をしました。それを聞いた父は、「そんなはずはない、嘘をつく事は非常にいけない事だ、本当の事を言いなさい」と、だんだんすごい見幕になって、初めて見る父のいきり立った様子に、四人の子供はビックリしながらも誰も「自分が食べた」とは言いませんでした。そこへ帰宅した紳兄さんが「あっそれは俺が食べた」・・・・・・父は拍子抜けし
、子供達は”ほっ”として一件落着。この事から、「嘘をついたり不誠実であったりしてはいけない」と言う事を子供ながらに私は理解したのです。気前が良くて気位の高かった父には、もともと商売は適していなかったのだけれど、私が小学五年生の頃、父はようやく勤め先を見つける事が出来、社宅のあった江東区深川に、四人の子供と共に引越してからの事、水を得た魚の様に生き生きとひたすら真面目に”仕事をしていたのでしょう・・・・・・・・・・・・・・。

今は亡き両親の事!その1

町角で、お年寄りを見かけるとふと父や母の面影が忍ばれます。なくなってもう三回忌、亡くなったばかりの頃は、よく枕元に立っていましたが、この頃ではそれが少なくなって来ましたので、、きっとあの世で二人仲良く安住の地を見つけてくれたのではないかと思っています。”植木の手入れが好きだった父”やはりあの世で”美しく”造園して楽しんでいるのかしら?我家の庭で父から譲り受けた木コクや譲り葉が、新芽をふきだすと、父の命を感じます。存命の間中、父が心掛けていた事、それは「他人に迷惑をかけない事」でした。この事は、容易い様で、徹することは難しいことです。なくなる一ヶ月位前、明らかに余命いくばくもない事を知っていた父は、一生を振り返って「どうやら、あまり他人に迷惑をかけずにすんだ様だった」とつぶやいていた。あの悲痛なガンとの戦いの中で、この言葉は父のさわやかな人柄を物語っている様で、私は最後までこの人が”私の父”であった事に誇りを持てました。今、思春期の子供を三人持つ身となり、改めて父母の愛情や苦労の程を知る思いです。満州から六人の子供を引き連れて、リュックサック一つで引きあげて来た父母は、当時の多くの人がそうであったとは言え、”どんなにか大変な思い”をした事でしょう。まだ小さかった私は、ずっと父の背中におぶわれて引きあげて来たわけで、痩せてゴツゴツした背中の感触はわかっても、その苦労の程は後に聞いた話から想像するのみでした。そんな中でも私たち子供が、心まで貧しくならずに済んだのは、両親の深い愛情があったからではないかと思います。ここに幾つかの心に残っている思い出を、ご紹介したいと思います。引きあげてきて四年目位の川崎時代の頃、ままごと遊びが好きだった私が、座布団をくるりと巻いて人形の代わりに抱いていると、その姿を見た父が、ある日かわいい人形を買ってきてくれました。当時の貧しさの中で”どんなに無理をして買ってきてくれたか”今思えばただ”ありがたさ”で一杯です。                       この文章を書いたのは私のすぐ上の姉です。この姉には生活が苦しい時に助けてもらい” 本当に感謝”しています。この場を借りて”ありがとう”と言わせてもらいます。                                                                                                                                    続く

両親の事!山下洋子

夫婦が一生連れ添って、同じ墓に入るということは簡単な事の様でとても難しい事だと思います。私の見た限りでは、両親はいつも一緒でした。父は亭主関白で、右の物を左にもしないタイプだった様です。それを見て育ったせいで今私は、関白亭主と暮らして行けるのかも知れません。でも父は、母をとても大事に思っていると、何かの時に聞かされたのを覚えています。たまに母が家を留守にする時、子供達がいくら気を使って父に対しても、何となく寂しげな顔をする父でした。母は、主人につかえ、子供を育てて、やっと自分の時間が出来た時には、目が見えなくてさぞかし大変だった事でしょう。光と音のない世界で、何であんなに平生な時間を過ごせるのだろうかといつも感心したものです
。水俣に来た時は、父と母のの立場が逆になった様に、父が母の面倒を見ていました。白梅荘に入っていた二年間父は、踊った事もない踊りと、絵に悩まされた様です。何度か父の絵がはってあるのを見たものです。伊豆の下田に遊びに行った時、とても弱った父の姿にびっくりしましたが、あの時既に病気が進んでいたのではと、今になって思われます。子供達と父とで下田を見物した楽しい思い出が、父の元気な最後でした。病気と闘う父も母も、とても物静かな感じがしました。今も一緒に天国で仲良くしている事でしょう。
私はこの文章を書いた洋子姉さんの死に目に会えなかった。腰を痛めて九州まで行ける自信がなかったからである。姉にすまないと思い毎日心の中でわびていた。旦那さんにも何度も電話をし感謝の言葉を述べた。

亡き父母の生命果てる日まで!最終

これだけ死亡する人が多くなっても、自分の親だけはガンにならない様な気がしていた。幾度か相模原から駆けつけてきて、勤めがなければ、このまま幾日も看病してあげたいと帰るたびにうしろ髪を引かれる思いがした。最後の日の”父の寂しい顔”が瞼にこびりついていてどんなに悔いても取り返せない。”何時どこで又会えるやら脈薄き君が死を待つ、手は震えゆく”父の最後の脈に触れて、母の詠んだものである。父が亡くなってから母の顔は本当に寂しさそのものの様になってしまった。五十余年、喜びも悲しみも共に耐えぬいた夫婦の一方が欠けた時(まして母は眼が見えない為なお一層)、もはやそこには何も残っていないのではないか、ただ残された寿命がつきるまで生きているだけではないか。でも母は幸せだった。恵まれていた。皆に看取られて入院もしないで死んでいった。[ありがとう、ありがとう、嬉しかった]と言いながら・・・・・・・・・・・・。父と母は理想的な夫婦であったと思う。父を見送って4ケ月後母は亡くなった。母のお骨をお墓におさめてほっとした。父のお骨が一人ぼっちで可愛そうだったのにまた一緒になれたからである。霊界がどんな所かわからないけれど、手を合わせると二人で仲良く雲の上を歩いて行く姿が私には何時も浮かんで来るのである。「お婆ちゃん、俺より一日でも長生きしてくれよなあ、目が見えなくても良い・・・耳が聞こえなくても良い・・・・から先に死なないでくれよ」と言っていた父、「私もお爺ちゃんが亡くなったら、どんなに子供達が大事にしてくれても寂しくてとても生きて行けませんよ」と言っていた母。幾山河を乗り越えて”そいとげ”ほぼ同じ時期に”生涯”を閉じた本当に素晴らしい夫婦であったと思う。                  啓子

亡き父母の命果てるまで!その5

東京の北区浮間に住んでいた頃の両親の姿が一番平和だった様に思えるが、やがて浮間の家を手放さなければならなくなり、冨士子の所に移り、昭和48年1月越谷弥栄町の雄一方に移っている。翌昭和49年11月には水俣の洋子の所に移り、昭和52年4月白梅荘夫婦個室に入った。景色は素晴らしく建物は美しくても、内に住む人達は肉親にかえりみてもらえない寂しい人々で、「もしお爺ちゃんに先立たれたら私はとてもここにはいられない」と母に言われた時、私は申し訳なさで胸が詰まった。6人も子供を育てて誰一人みてくれる子がいなかったらどんなに悲しい事だろうと・・・・・。幸いに弟の商売もだんだん軌道に乗り、いずれはお爺ちゃん達を呼ぶつもりだと言ってくれたので、出来るだけ早い機会にそれを実現したいと手紙を出した。53年4月2日付けの返事で、「今、芽の出たばかりの時に世話にならずに、何時でも世話になれると言う安心感を楽しみにしてなるべく白梅荘に長く居る事にしよう、但し最悪の場合
、例えばこの部屋を出される事が起きた場合とか。あるいは洋子と鉄也さんの間がもつれたときは迷惑でも子供の世話になるより仕方がない、世話になりに行くまでに消して我儘を言わない良い老人になる修業をしておく事にしよう・・
・・・・」と書いてあった。その後白梅荘土地地との間にちょっとした事があり、思ったよりも早く、54年の4月宇都宮の弟のもとに帰ってくる事になった。まめにきちんと転居先の連絡をする父だったのでそのハガキによると、54年9月宇都宮新町へ(現在このみちゃんの住居)55年7月下田(山の上の3階建ての家)、同年9月スワロウ下田マンション(下田駅の近く)、56年2月八幡野(伊東のスズラン店の近く)同3月発病。
                                                                                             次回で最終になります。